私は中国に住んでいます。こちらの掲示板本日発見しました。
皆さまの書き込み本当に勉強になります!
うさねこさんの仰っていた「ODAたらい回し」の件ビックリしました。そして今頃になってやっと金額的なものを公表したんだということにも…
中国に来て、初めて中国もアフリカ等開発途上国の支援活動をしていることを知りました。知った当初は正直言って「なにッ!?」という感じでした。他国を援助する以前に、中国国内で改善しなければいけないところは沢山あるのに…中国にだってまだまだ貧困地区はあるのに…って。
…それが日本の援助資金を回しているとなったら。何それ!!です。
日本はもう出来る限りのことをしたと思ってしまいます。
復興支援のお金を他所に当てたのは中国政府の責任(普通の中国国民は日本が今まで中国にどれだけの援助をしてきたのかなんて知らないでしょうが…)。自分で自国の整備を手着けずにしておきながら、中国政府に対する人民の不満をコントロールして反日感情に摩り替えてしまうなんてひど過ぎる。
どろんこさんのところで書かれていた対中貢献アピール、中国政府に抹消されず人民に周知されることを切に願っています。
日本を中傷する人民に罪があるのではなく、問題は中国政府だとは思っています。思ってるけど…
理解しているつもりでも、やっぱり中国を好きになれない…
どうすればいいんでしょうこの気持ち(T.T)
中国は日本から獲得したODAの一部をそのままアフリカ等の後進国にまわしていますね。一人あたりのGNPからすれば中国も後進国なのですが、私が前回いったように、ひどく曲がりなりにも、中国は一応は戦勝国として常任理事国の立場を得ているわけですから、面子はたつわけです。しかし中国の知識人が「私たちもODAで日本以上に後進国を助けている」と日本のODAのたらい回しで、それが日本から来た外貨であることを明言せずに、いうのはおかしいと思います。親からの仕送りで友人を助けた、という放蕩息子が、親を「侵略者」といいつつ金をせびる、ということとなにも変わりありません。私はそのことに関して、個人どうし何度も追及したことがあります。
彼らはほとんどの場合、安直な戦争責任論と中国経済大国論に逃げてしまいます。そしてこれからが最もおそろしいことなのですが、一見すると親日派的な人も、「そのような質問をしたことにより」付きあいを疎遠にされたりします。知識階級的な人になればなるほど、そういう傾向が多いのです。その度、私の内部で、中国人や中国文明への尊敬がどんどん溶解していくのを、私の眼から感じとれなかったのでしょうか。わかっていたうえでやっていたのなら、そういう態度の彼らをどうとらえるべきなのでしょうか。
日本に戦争でひどくやられたのが悔しいのなら、「汚らわしい」日本のマネーなどあてにせず、独力で第三世界を援助すべきだと思います。あるいは面子上、第三世界援助が仕方ないのなら、日本に対してもう少し「すまなそうな」態度を取るべきでしょう。
たとえばODA援助が賠償金的な意味をもつのなら、「賠償金」は戦災による復興や産業再建に当てるのが本筋で、戦勝国の数十年後の経済支援の一部にあてる、というのはお門違いもいいところです。
あるいはもし、中国がもらった金はどう使ってもいいじゃないか、というならば、「金(賠償金=ODA)さえ払えば靖国に行こうが行くまいが宗教問題はこちらの勝手でしょう?」という論理が成り立ちうるのではないか、と主張できるのは当然ではないか、と思えます。しかし中国はいつまでたっても自国の無宗教性を日本におしつけるままです。「いつまでも友人を支援したいために、仕送り先を侵略者とののしる」という盗賊的論理が国民国家の方針だとしたら、そんなケチな教育にさらされながら反日」をいう中国の子供たちが可哀相だと思います。
下の記事はMSNからのコピペです。
外務省:
ホームページで対中貢献アピール 反日デモ受け
外務省は中国各地で起きた反日デモを受けて、同省ホームページ(HP)の対中政府開発援助(ODA)についてのコーナーを一新した。これまでは対中ODAについて、基本方針や歴史などを文章だけで掲載していたが、80年度以降の対中ODAの総額を約3兆3334億円と明記。空港や鉄道などの個別の大規模事業を写真付きで紹介し、中国の経済成長に対する日本の貢献をアピールしている。今後、対中ODAのページを中国語と英語でも表記。日本の対中貢献を直接、中国国民に発信し、対日理解につなげたい考えだ。
日中両国は小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題などで関係が悪化。対中ODAをめぐっても、政府内には「これだけ支援していることが中国国民に理解されておらず、感謝もされていない」との指摘が出ていた。このため、ホームページでは個別事業の所在地と支援額を中国地図で示し、わかりやすい表記にした。
日中両政府は中国の著しい経済発展などを踏まえ、対中ODAの大半を占める新規円借款を08年度までに停止することで基本合意している。【大貫智子】
この記事を読んで唖然とさせられたのは、こんなことはずっと以前から当然やってるものと思っていたからです。どうして日本の政治家や官僚は実際に事が起こってからでないと行動を起さないのでしょうかねぇ…(外交だけでなく年金問題等も含めて)
国政全体からすればごく微細なことではあるけれど、こういうことをきちんと前もって取り組んでいれば中国国民の反日感情のあり方だってかなり違うものに成り得たと思うのです。国民感情というものは非常にデリケートなものだけに一度爆発してしまうと後戻りが困難となります。日本の対中貢献の事実を熟知していたら反日デモに参加しなかったであろう中国国民は日本大使館に投石した人たちの中にも多くいたと思われます(というかそう信じたい…)。
「根回し」は日本人が得意とするもののはずなんですが…(笑)。今後は草の根レベルの根回しを重視して欲しいものです。情報が行き渡っているならば一部の政治家たちによって国民感情を歪曲される危険性もその分軽減されるわけですから、インターネット時代の国際関係においてはいかに他国の国民に直接アピールするかについての検討がとても重要なのではないかと思われます。
日本に滞在している中国人留学生の人たちは(中国国内でも無論かまいませんが)、日本の対中貢献についてどの程度知っているものなんでしょうか? 誰か知ってる人はレスしてくれたら有り難いです。
100ゲト(・∀・)
なるほど、常任理事国入りの問題もありましたね。
どろんここぶたさん、の言われるように、参拝中止=日本の常任理事国入り賛成、というふうに中国が動くということはほとんど有り得ないと思います。もし妥協をかろうじてひきだせたとしても、宗教的感情を政治的妥協の犠牲にするということは好ましいことではありません。もちろん靖国神社は伝統的な神道とは違いますが、では完全に日本の宗教感情と無縁かというと、そんなことは決してないわけです。中国が主張しているのはある意味で無宗教的価値観の徹底的な押しつけで、かつての日本政府が満州国皇帝に「満州人の先祖は日本の天皇家の先祖と同じ」と押しつけたことと何ら変わりはないことだと思います。
ところで常任理事国入りの問題には、例によって中国人の歴史観(第二次大戦史観)が大きくかかわっている面もあります。常任理事国は二次大戦の戦勝国(アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト、中華民国=現台湾)で本来占められていたもので、いわば戦争に勝った証、というべきものです。
この中でメンバー上大きな変動があったのはソビエトと中国です。ソビエトは政変でロシアへとほぼ大きな批判もなく移行しましたので特に問題はありませんが、中国に関しては大問題があります。
というのは第二次大戦時の中国は国民党政権の中華民国でしたが、大戦終了後の内戦で共産党の中華人民共和国が勝利をおさめ、中華民国は台湾に亡命し今日に至る、という周知の背景がまずあります。しかし当初はアメリカの力で台湾(中華民国)が常任理事国のままでした。
その後も台湾が長い間、常任理事国だったのですが、1970年代に入り、米中接近により台湾から中華人民共和国に強引に常任理事国が移動させられました。ところが中華人民共和国は朝鮮戦争時、国連決議に反して朝鮮戦争に介入してアメリカと大激戦を演じました。問題はそのときの決議違反に関して、中華人民共和国を常任理事国入りさせてくれた当のアメリカがいまだに有効と判定しているため(こういうことろはアメリカこそ、したたかな国です)いまだに「侵略国」の認定から離れられない、という負い目を持ちながら、常任理事国に加わっている、ということなのです。
そこへきて、中国が侵略国と断定している日本が常任理事国入りすることは、中国人の第二次大戦の善悪論的歴史観が根本的に崩壊することを意味するわけです。どろんここぶたさんに習い法律用語を使えば、デュープロセス(手続保障)を大原則と考えるアメリカではいまだにこの国連決議を重視する政治勢力が非常に優勢で、それに従い、「中国=決着のついていない侵略国」と考える人が多いのです。
第二次大戦の善悪論なんか、アジアの国々ですら、とうの昔に忘れ去っているもので、日本の理事国入りに反対する有力な勢力など、どこにも見られません。ただ「自分が侵略者である」という負い目を背負いながら常任理事国を続けていた中国が、ヒステリーに反対しているだけ、というべきでしょう。したがって日本の常任理事国入りは、これまで以上にあらゆる口実を使い、必死に反対してくる可能性が高いでしょう。
うさねこさんの見解にはいつも感心させられます。
不勉強な者ながら小生も少しばかり書き込みしてみます。
靖国参拝反対者の言う「国益」にはうさねこさんが指摘した経済的問題のほかに、「常任理事国入り」という問題もあると思います。つまり参拝を中止することで常任理事国入りに関して賛同を得る、というものです。
ただこれには、結論としては反対したいと思うのです。
何よりもまず靖国参拝を中止したところで賛同は得られないと思うし、寧ろ今後ますますつけ込まれる結果になる可能性が強いでしょう。
また、もし仮に靖国参拝中止と引き換えに常任理事国入り賛同という言質を水面下で得たとしても、やはり反対を唱えたいです。
この場合、政治的には解除条件的に(法律用語で、ある条件が成就された場合に解除、つまりなかったことにすること)参拝中止を受け入れ、常任理事国入りした後に参拝を再開するという手もあります。
しかし、国の殉死者に敬意を表するという素朴な宗教感情(それこそ「宗教」という言葉を使うことすら躊躇われるほど素朴な心情である)を政治上の交換価値として使われたくないのです。
以前うさねこさんの書き込みにもありましたが、日本人には死ぬことで生前の罪が浄化されるという認識があると思います。更に個人的に付言するならば、東京裁判自体が茶番的性格を多分に持っていたということも挙げられると思います。すなわち東條は確かに悪いのだけど、実際以上の濡れ衣まで負わされて処刑された、という同情すべき点も含めて、色々あったけどもう好いではないかという(大げさに言えば)歴史観が日本人にはあると思うのです。
そういう複雑にして素朴な国民感情をよその国が余りに単純な善悪二元論で難詰してくるのは非常に無礼だと思うし、ましてや政府がそれに応じるというのは国民に対する裏切りとすらいえるのではないでしょうか?
特に中国は自国の人権侵害を国際世論が非難すると内政不干渉だとか人権の普遍性自体を相対化することで反論するくせに、日本に対しては自国の歴史認識のみを絶対化してそれこそ内政に干渉してくるのだから非常に不愉快でなりません。
少々ゴチャゴチャしてきましたが、簡潔にいえば、歴史とは相対的なものであるという前提のうえ、曲がりなりにも靖国神社の参拝は日本人の素朴な宗教感情に基づくものであり他国から云々されるべき問題ではなく、またかかる素朴な国民感情を外交上の用不要の点から動揺させるべきではない、ということです。ましては中国のように自国を棚にあげて干渉してくる国に対しては毅然とした態度を政府には取って欲しいと願うのであります。
おそらく、野党としての面目のため、の方でしょう。
岡田代表は元はバリバリの自民党経世会の若手ですよね。政治の世界の言葉なんて、党派性でどうにでも変幻してしまうむなしいもの、なのかもしれませんけれどね。経世会ですからもともと新中国派である可能性もありますが、彼の言葉、あまり迫るものは有りませんよね。大体民主党は自民党以上の左右混成部隊なのですから、世論操作と智謀によほど長けていないと、最終的にはやはり左右混成部隊だった社会党の二の舞、曖昧がゆえに消えていく宿命にあるのでは、というふうに思えます。
ところで「国益」という言葉ですが、岡田さんや中曽根さんたち靖国反対派のいう国益というのは何か、ということですね。
おそらく中国との経済上・貿易上の利益を優先すべきで、これ以上、歴史認識の問題に政治家どうしが拘泥すると、経済的な利益を日本が損なうことになってしまう、巨大化しつつある中国の市場を欧米にみすみすとられる結果になる、そういうことを彼らは言いたいのではないでしょうか。しかし果たして本当にそうなのでしょうか。
二十世紀初頭からいまに至るまで、日本も欧米各国も、「世界史上最大のマーケット中国」というテーマを追ってきました。満州事変や日中戦争を純粋に経済的側面からみると「欧米に占められる前に中国市場を独占しよう」という当時の日本の経済界の要請がありました。日本と米英国との対立は遠く日露戦争の昔、ロシアから賠償として得られた満州鉄道にアングロサクソンの鉄道王ハリマンの資本を入れる約束を日本側が破った、ということに遡るのが通説ですが、とにかく日本も欧米も、「広くて人口の多い中国」を経済的な意味で獲得しよう、と腐心し、挙げ句の果てにそれが遠因で日米戦争に突入する、ということにまでなってしまいました。
しかしお店や会社を経営された方ならすぐにわかることではないか、と思いますが、いくら人口(客数)が多くても、平均してつまり全体としてお金を持っていなければ仕方ないわけです。逆に客数自体は少なくても、トータルでお金をたくさん有していれば全然問題ない、といえます。考えてみれば中国は日清戦争あたりから、いくら人口が多くてもトータルで一度も日本に経済力が及んだことはありません。それが悪いというのではないのですが、そのことを認識してさえすれば、中国を巡る取りあい、などということは起きなかっただろうし、中国マーケットという多分に幻想的なテーマから、自由になれるのではないか、と思うのです。そしてその上で日本と中国の間の国益(経済的国益)ということをもう一度考え直してみることが必要だと思います。おそらく中国の方こそ、依然として巨大なマネーを有している日本がいなくなれば困り果ててしまうのではないでしょうか。
GNPからすれば中国は全体で日本の三分の一から四割、一人あたりに直せば人口比からしてその十分の一ということになりますが、経済力というのは技術力や特許、という面も非常に重要です。これからは中国の時代といいつつ、自分の彼女や奥さんに中国製の自動車をプレゼントする、というどれほど人がいるのでしょうか。消費経済がはじけたり財政破綻をきたしたときに、確かな技術力がその国にあれば経済力はいくらでも再建できると思いますが、中国にそのレベルまでのオリジナルなハイテクノロジーはどうもまだ見あたらない、というべきでしょう。
そして人口ということならインド、面積ということならロシアやカナダ、ブラジルだって充分に「多い」「広い」わけです。そして最も致命的なことなのですが、中国が広いからといって資源が豊か、とは全くいえないのです。太平洋戦争に日本が突入した原因は、日本の膨張に業を煮やしたアメリカが対日本石油輸出禁止に踏み出し、日本が首をしめられる形でアメリカに戦争を仕掛けた、ということになっていますが、当時日本は朝鮮、台湾、満州、そして中国の主要部分を殆ど制圧しており、足りない資源はそこから(植民地から)とればいい、と考えるのが普通です。ところが中国は今も昔も殆ど石油の産出がないのですね。そしてそれこそ人口から割り出せば、中国の各資源は実は日本と大差ないほど非常に貧しいといわざるをえません。多くの天然資源の輸入量が激増しているのが現状です。
もし岡田さんや中曽根さんがいう「国益」の意味が、「隣の国は仲良くしなければならない」ということなら大賛成です。個人の世界でのお隣りはいざ知らず、国というのはどこでも隣りどうし、仲が悪くなるのは常だからです。フランスとドイツ、インドとパキスタン、トルコとロシアなど枚挙にいとまありませんが、仲が悪いのが常だからこそ、「仲良くしなければならない」というモラルが必要ですよね。しかし徒に中国を特別視して、中国だから仲良くしなければならない、とばかりに彼らの日本への内政干渉を承認するのが国益である、というのは全くおかしいと思います。中国と韓国だけでなく、フィリピン、ロシア、そしてアラスカやハワイ、マリアナ諸島を通じてということですが、アメリカだって日本の隣国であることは間違いありません。存在するかどうか全く不確かな「国益」のために、モラルをねじまげる、というのは、国益を追求しない不作為よりも犯罪的ではないか、と思います。
みなさんのスレ観てるだけで、歴史から国際情勢まで勉強になりますね!このスレそのまま教科書にして北朝鮮や中国に送りつけたらいいのに。
中国といえば、例の反日デモの後、中国の某地方で大規模な農民のデモ(暴動)があったそうですね。
中国政府が、国民の不満のガス抜きとして反日を利用しているのが明らかなのに、民主党の岡田代表などの言論(小泉首相の靖国参拝は国益を損なう云々)を聞いていると、まだそんなことを言っているのか・・とウンザリします。
本気で何を言われても日本が悪いと思っているのでしょうか!?
それとも野党としての面目のため!?
どちらにしても、あなたに国益云々言われたくない!と思ってしまいます・・
中曽根さんが靖国参拝反対を言い始めたそうですね。政治の世界のいろんな意見があってもちろんいいのですが、「タカ派」的イメージが強い、その割には首相時代からなぜか中国びいきで、この面に関しては政治評論家からは「弱腰」といわれるほどです。今回のこともちょっと意外に思われた方がいると思います。
もしかしたら中国(中華民国時代)に昔、恋人がいたの?と思えるほどですが(笑)中曽根さんの著書を読めば、謎はすぐ解決します。
中曽根さんはやはり日本的「タカ派」なのです。日本的、ということが大切なのですが、明治時代から、日本のナショナリストといわれる人たちの有力な系譜に「日本・中国提携論」というのがあって、中曽根さんも素直にその一人、だということが、彼の著書を読めばすぐにわかります。やや古い世代の人にはこの考えが依然として非常に強いのですが、つまり中国という国への過大評価と無理解の上にたって、「日本と中国という大国がアジア代表としてお互いに提携して、欧米の横暴や侵略に対抗しよう」という多分にロマン主義的な考え、ということができると思います。「中国より」の言論というのは、左よりのジャーナリストだけではなく、一見すると非常に「タカ派」な自民党、あるいは旧自由党系の民主党などにも有力に存在するのです。
これは非常に問題のある考え、といわざるを得ません。たとえばこの「日中提携神話」は、近代中国の父である孫文の政治運動を、日本の戦前右翼の総帥である頭山満が大いに援助し、かつ二人が大いに日中提携で意気投合したというエピソードを最重要な一章においています。確かに孫文という人は日本の近代化を絶賛し、それをモデルに中国の近代化推進を唱え、また「孫大砲」とあだ名されるほど、大風呂敷に夢を常に語る大変魅力的な人物でしたが、一歩ひいて観察してみれば、彼は近代中国知識人と全く同じく、日本の近代化を理解こそすれ、彼の著作を読む限り、日本文化そのものの特殊性、ということをほとんど理解していない人物、といわざるを得ません。大体、民族対立のほとんどない島国(海洋国家)と、二十世紀になっても民族対立だらけの巨大な大陸国家を同じ土台にのせて考える、という感性からしておかしいのですが、以後、この孫文的な感性の問題点が検討されないまま、中国側は「日本にできて中国にできないわけがない」という彼らにとって耐えがたいジレンマにはまったまま、日本は日本で中国がアジアで唯一の大国のパートナー(かもしれない)、という幻想から抜けだすことができないで、あるいはその幻想がゆえに、期待を裏切られてばかり、ということになります。たまたま隣の国、というのが提携論の根拠だとすれば、その実はきわめて乏しいものだ、といわなければいけません。
ところがこの提携論は脈々と生き長らえてしまいます。石原莞爾や北一輝のようなたいへん冴えた頭脳の持ち主でさえ、日中提携論を基礎にしたアジア主義を大きく提唱し、多くの支持を集めてきました。たとえば石原莞爾の満州国計画は、ある種の中国改造計画であり、それこそ日本からの強引な中国近代化のための思想の現実化という面を有しています。しかしこれらのことに関して、根本的な反省、つまり日本も中国も本当の意味で教えあう素直な関係になるのは無理なんだよ、ということについて反省がみられるかというと、中曽根さんのような考え方のナショナリストは、依然数多く、そして依然根拠をもたないまま存在しています。
中国は江戸時代のような、精緻な資本主義的世界と階級社会が両立する、という世界史的にみてもかなり貴重な時代を有していません。確かに紀元前から中国は貨幣経済を巨大な規模で発達させてはきましたが、ほとんど近代資本主義に接近できませんでした。日本側からすれば実はこの江戸時代にこそ、日本がヨーロッパ文明に接近できた、いろんな秘密が秘められています(手形制度や不換紙幣の自然発生など)あるいは全体的にみて、日本は中国のように王朝が次々交替する国ではなく、少なくとも継体天皇以後は単一の王朝が継続しています(継体天皇と武烈天皇の間にはやはり断絶の可能性があります)こうした細かい点を検討すれば(細かくもないかもしれませんが)日本と中国の共通点などははほとんど存在せず、モデルも何もあったものではありません。ちょっと考えればすぐにわかることです。そして何度もいいましたように、歴史に対する考え方、利用の仕方はいまだに天と地ほどの違いが存在しています。
もしそれでも提携する、というなら、お互いをあまりに理解していない、ということから始めるべきだと思います。変なたとえですが、同じ人間(国家)と同じ理由で何度も離婚する、というのはどう考えても双方の無理解が原因なのではないのでしょうか。
「政治が歴史に利用される、とはこういうことなのです」(39行目)ではなく「歴史が政治に利用される、というのはこういうことなのです」ですね。すいません。
勝者が歴史(特に現代史)を書き換えてもよい、という中国の歴史の伝統、についてですけれど、わかりやすい例をあげると、たとえば日本人にとても馴染みの深い「三国志」という書物にも、その傾向があります。
皆さんは学者や作家が書く文章で「彼は誰それの弟子だから、師匠をヨイショしているな」というふうに読んでいて感じる文章、というのがよくあると思います。文筆家はいろんな人間関係の柵(しがらみ)におかれているわけですから、そういう文章を書かなければならないこともあるわけです。しかし「客観的な歴史」を記述する人間が完全にそういう柵におかれている、としたら、奇異な感じがすると思います。特に三国志のような、中国史全体からみても有名な歴史書が、です。
三国志の三国時代は終始、曹操の魏が優位に立っていたのですが、魏は曹操の死後、重臣の一人であった司馬仲達(シバイの「イ」の漢字がでないので以下、仲達とします)が次第に曹一族を退け、仲達の孫の司馬炎が魏を廃して晋を建国し、ほぼ同時期に呉と蜀が滅亡して三国時代に終止符がうたれます。
「三国志」はこの晋の時代に書かれたのですが、三国志の著者の陳寿という人は実は蜀の出身の文官で、能力の割には非常に不遇でしかも蜀の出身ですから出世からは遠ざかっていました。ところが晋の首脳の張華という人にたまたま認められ、晋に雇われ、書かれたのが「三国志」という書物なのです。中国史的にいえば三国志というのは晋の支配を正当化するための現代史(当時の現代史)ということになります。
従って陳寿は非常に晋に配慮・苦慮しながら三国志を書いたのです。とくに意図が目立つのは、晋の建国の源をつくった仲達の功績に関してです。たとえば仲達とライバルで激しく対立した蜀の諸葛亮のことをほとんど超人的な天才軍師ともちあげたり、晋の直前の国の魏の曹操のことをあえて悪人的な君主として考えるのは(晋の正当性のためには魏はある面において否定されなければなりません)陳寿の非常にしたたかな意図のよるものが大きいと考えるべきです。また魏は遼東半島・朝鮮北部の遠征と制圧を仲達の遠征軍の力で成し遂げたのですが、三国志はこの功績を過大評価するために、この方面の地理を異常に大きく記す傾向にあります。たとえば陳寿は朝鮮半島を、実際の地理を知っていた上で、なんとインド亜大陸と同等の大きさ、と記しています。また卑弥呼が登場することで有名な倭人伝の章も陳寿の筆によりますが、邪馬台国が魏に朝貢したのも仲達の功績と考えられたため、陳寿はそこまでの距離を著しく誇張し、本当は北九州か近畿地方にあるはずの邪馬台国をマリアナ諸島あたり(としか思えない距離のところ)に設定しました。それほど遠くまでの国にも、魏や晋の影響力がある、という意図のためにです。そして都市国家邪馬台国の人口を、世界最大都市の洛陽とほぼ同じ(戸数七万個)と記していますが、よく考えればそんな馬鹿げたことはありえないわけです。
しかし日本人の歴史学者のほとんどが、陳寿の政治的意図、というより中国人の歴史の書き方、ということを意識しないで、邪馬台国の位置や規模を、陳寿の記述を信じ込んで展開してきたのですね。日本人が書物化された中国の歴史しか知らないで、中国人の歴史観を知らないできた、とはそういうことです。
ですから三国志とは三世紀当時の中国の世界の政治的意図に基づいて書かれたもの、と考えなくてはいけません。政治が歴史に利用される、とはこういうことなのです。
そして中国の歴史書の記し方、というのは今でも全く変わるところはないのですね。日本や欧州の歴史書は、こうした政治的目的のためのものから普遍性・客観性の記述へ、と緩やかに変化してきています。それどころかヨーロッパにはヘロドトス的な客観主義が根っこのところからあり、日本も最初の歴史書である日本書紀の時代から(私は古事記偽書・後世創作説をとりますので日本書紀が最初の史書です)自説の反対説を詳しく記す、という客観性の萌芽がみられます。ところが中国人の歴史記述の考え方、というのは三国志のころからいつまでたっても不変なのです。歴史的事実の記述は政治的意図によっていくらでも変動する、ということです。ですから日本軍の加害内容の誇張など(加害自体はあったと思いますが)朝飯前なのだ、というべきでしょう。単に主人公が仲達や諸葛亮から毛沢東や蒋介石になっただけの話です。私たちが考える「歴史的事実」と彼らが考える「歴史的事実」は全く意味が違うもの、なのです。
第二次大戦の決定的な消化不良は、「正義と悪の闘争」という歴史観をすっぽりそのまま持ちこんでしまったことにあります。歴史に対する観方というのは、決して一定のものでなく、「正義と悪の闘争」というのは、あくまでも一つのとらえ方に過ぎません。ところがドイツのジェノサイド(大量虐殺)があまりにクローズアップされたため、ドイツの側=悪、という図式が定着してしまいました。
この図式に乗る限り、「正義」は永遠に「悪」に謝罪を要求することができるし、謝罪や経済援助はもちろん、勝利すべくして勝利した「正義」はどんな暴言も吐くことが許されるのです。「正義」とは実は非常におそろしいものなのです。
正義の悪との対立を強調するのはキリスト教的(あるいはユダヤ教的、マルクス主義的)な歴史観です。ところがヨーロッパにはヘロドトス等が確立したギリシア的な歴史観、というのも別個に存在します。ギリシア的な歴史観というのは正義も悪もない、両方に正当性がある力がせめぎあうのが歴史だ、というとらえ方です。ヨーロッパ人はキリスト教的なものとギリシア的なものの双方の考え方の間を絶えず行き来しているといえます。
よく考えてみれば、ヘロドトス的・ギリシア的な歴史観が客観的に正しいに決まっているし、現在の私たちにも、しっくりくるのです。ドイツにジェノサイドを弾劾するソビエト・ロシアは実は二次大戦初期、枢軸側の方が分がよかったので、枢軸側に何度も加わろうとしました。結局話し合いが決裂して独ソ戦が始まりソビエトが連合国に加わりましたが、ほとんどたまたま、「正義」の側についただけなのですね。「正義」って「たまたま」なものなのでしょうか。日本にしてみても、「アジアを侵略した」といわれるのは何となく心外で、アジアはほとんど連合国の植民地だったわけですから、割り引いて考えても「植民地の取りあい」にしか過ぎなかった、という反論が可能なのは当然だと思います。あるいはドイツとの同盟を主張したということで日本人の親ドイツ派が戦犯処罰されましたが、日中戦争時、ナチスドイツの軍事使節団を要請して受け入れた中華民国政府の「戦争責任」は問題にならないのでしょうか。
ところが「正義」ということを歴史のとらえ方に持ち込めばすべてがおかしくなってしまいます。ディテイルの検討は肩っ端から抹殺され、「正義」の正当性を謳いあげることだけが歴史の目的となります。
さらに困ったことに中国には司馬遷以来、支配の正統性を唱えるのが歴史の役割である、というこれまた主観主義的な歴史観があります。日本人の問題点は書物化された「中国の歴史」というものばかり学んで、書物化される以前の段階の「中国人の歴史観」にあまり関心を払ってこなかったことにあります。たとえば中国の歴史は王朝が交代する直前の皇帝、つまり滅ぼされた王朝の皇帝をわざとボロボロに悪く記述する傾向があります。一言でいえば勝利した側は歴史を書きかえていい、「歴史」は何より現実の政治に奉仕するもの、という考え方です。日本は江戸時代以降、曲りなりにもギリシア的な歴史感覚を身につけてきましたから(神国教育のせいである程度針を戻した時期もありましたが)こうした中国人の「歴史は政治に奉仕する」という壮烈な感覚はなかなか理解できないと思います。そうした伝統的な歴史観で二次大戦をとらえ、さらにその上に中国はキリスト教的な歴史観による第二次大戦観を補強しているのですから、彼らの傲慢さは無敵というべきでしょう。
負けた側はフィクションすら受け入れなければいけない、ということなのですから、「謝罪」や「経済援助」のことで彼らが妥協することなどありえません。国民教育や文明・民族性の違いから生じる「歴史観」の違い、とはこれほどおそろしい力を有しているのです。
それにしても日本は何度謝罪すればいいのでしょうか・・・
(お金で解決するという意味ではなく)そのたびに経済援助を何度すればいいのでしょうか・・・
中国人や韓国人に対して悪い印象はもっていません。一部の人たちだと思っているので。
ただなんか悲しくなります。弱みをにぎられて何度もお金巻き上げられてる人みたいな気分になりそうです。
自虐的ジャーナリストが多すぎるといわれるのはよくわかります。たいへん奇妙な言い方になりますが、日本人の自虐性はある種の屈折したナショナリズム・自国中心主義があると思います。
広島の平和記念の碑の文句をはじめ、大江健三郎さんの主張などにみられるように、日本人の平和主義には「過ちは決して犯しませんから・・・」という自戒的感覚があります。
「過ち」の以前には「私たち日本人」という主語が当然省略されているわけですが、明治以来、日本が直面してきた主要な対外戦争、特に日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争など、日本の国運を左右する戦争はすべて日本が先制攻撃でしかけてきた戦争です。
もちろん相手側の挑発等の事情があって先制攻撃した場合(ハルノートに対しての真珠湾攻撃)最初から戦争自体が完全な謀略であった場合(関東軍による満州事変・満州国建国計画)などありますが、国民からすれば自分たち日本人がしかけてきた戦争である、という認識でしょう。ということは裏返せば「日本人がしかけない限り大戦争は起きない」という感覚がある、ということになります。もちろん現実をみれば中東での戦争のようなことがあり、そんな感覚が間違いであることは決まっているのですが、歴史的に身についたものであるがゆえ、なかなか離れないのです。そうした自国中心主義がさらに屈折し、「日本よ戦争するな、軍備をもつな、防衛するな」といえば世界が平和になる、という奇妙なナショナリズム(左派的な人が主張するのだから奇妙です)に姿を変えている、そういうふうに理解されるのではないでしょうか。
自虐性を主張する人々がなんとなく堅苦しく語る内容が硬直しているのは、彼らが暗い時代の日本の歴史をそのまま引き受けているから、といったら言い過ぎでしょうか。
本当にそうですね。
しかし、うさねこさんのように、きちんというべきことを言い、説明することのできる(中国政府に対して、そして日本国民に対しても)政治家っていないものでしょうか。
このテの問題に関する報道を連日見ていると、どうにもストレスがたまります。
それにしても自虐的なジャーナリストが多すぎませんか?
日本の若い人たちに罪悪感、加害者意識を植え付けるだけで
本当にいいのかしら。
86のないしょです。
ああ…、うさねこさんのおっしゃる事っていちいち『すとん』と腑に落ちる感じでとても気持の良い読後感?があります。
中国が靖国問題にいちゃもんをつける不快感を自分の中で上手く理論化する事が出来なかった事がとてもよく整理することができました。ありがとうございました。
夫ともこの話はしばしばするのですが教科書問題(歴史認識云々)は下で言ったように不公平感・アンバランス感は否めないまでも気持はわかる、のですが、靖国問題に異常に過敏に反応する中国政府の態度がどうしても納得できなかったものですから。
大体、靖国神社がどういうところなのか、中国は認識しているのでしょうか。
A級戦犯合祀に反対、という彼らの主張には、「悪人は死後も悪人である」という中国人の独特の無宗教性があります。
日本人にはどんな人間でも死によって浄化される、という思想があります。日本人に宗教性がない、というのは「宗教党派的でない」という意味であって、死者や先祖のことを考え、漠然としてであっても根強く死後の世界を信じるということにおいては、宗教性が極めて強い民族である、ということもいえます。
A級戦犯の人たちは死刑になるという現世の報いを受けて完全に綺麗な人になったんだし、そもそも彼らが他の日本人の業をみんな引き受けて死んでくれた、ということで私たち日本人は彼らの魂(死後の彼ら)にお礼にいきたい、ということなのではないでしょうか。東条さん、まあいろいろあったけど、日本はこんなになったからあんたの死刑も無駄にならなかったよ、という感じで話にいく、そんな感じだと思います。
ところが中国人は現世での悪人はいつまでも絶対に悪人である、という考えから絶対に離れることはありません。「死後の魂」ということを果たして中国が信じているかどうかはなかなか難しい問題ですが、少なくとも死が人間を浄化する、という日本人的感覚は理解されません。
以前、ある中国人の友人(かなりの知識階層の人で典型的な反日思想家)に、「ビルマの竪琴」の映画(ビデオ)を見せたことがあります。友人は涙を流さんばかりに感動し、「日本人の死の考え方がよくわかった」といい、その次の日には靖国神社にいきました。あの映画・小説の中での水島上等兵の考え方、実はビルマ・ミャンマーの仏教(小乗仏教)の考え方ではありませんね。異国の地で無念にも戦死した日本人の死後の魂と一緒にいて安らかにしてやろう、という実に日本的な宗教性に従いビルマに残るのですね。水島はビルマ僧になっても、実はビルマの仏教を受け入れていません。あるいはそれほどの日本人の宗教性の強さが、あの物語の主張ではないのでしょうか。
もちろん、靖国神社の問題には憲法問題とか、また本来の神社神道とは違う、というようないろんな問題があると思います。ただ外国(中国)が批判するからには、こうした宗教性の違いを認識した上でいってほしいと思います。それが最低限の礼儀ではないでしょうか。
ここまで非常識な振る舞いを続ける中国と言う国には正直、憫笑しかできませんね。
大丈夫なのかしら?いったい本当の所は今、中国で何が起こっているのかしら?などと勘繰りたくもなってしまいます。
靖国問題…賛否とは別の次元で、アンチ中国というだけで小泉さんに味方する人とか出てきそうで、彼にとってはある意味ラッキーかも?
うさねこさんのカキコミにもありますが、英国に対しての態度云々…公平さとバランス感覚がとても狂った国という印象です。
最近の中国韓国のあきれた反日ぶりに、
さすがに以前ほどではなくなったかもしれませんが
何かというと、日本が悪い、首相の靖国参拝が悪いと
自虐的な歴史観を持ち出して日本人や日本の政府ばかり責める
政治家やら平和活動団体、一部マスコミが大嫌いです。
もしかして、中国そのものより腹がたつかも・・